冠婚葬祭と人々の繋がり
「集まり」が濁音化したもの。集会のことで、「今夜7時っからあずばりがある」と言い継ぎが回ってくる。人が集まるのも「あずばってくる」と濁った。
あずばり
集まり
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あてがい」は方言でなく、元は武将が家臣に対して所領を与えたことも意味し、その証書が宛行状(あてがいじょう)であった。部下の意見を聞かずに決めたことより、一方的に宛行することから生まれた言葉である。今でも、「あてがいぶちで悪いげんと、今日んとこはこれで」と言って、先方の都合を聞かず、こちらで判断して手間賃などを払う。食事についても、相手の好みを聞かず、当家の都合で出す時には「あてがいぶち」でと、形だけ謝りを入れるのが礼儀である。古い時代の雰囲気を感じさせる言葉である。
あて(で)がいぶち
宛行扶持
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あの仲間ら」という意味。「て」は体(てい)が縮まったもの。「ら」は等のことで複数を表す。「あんてらはつるんで悪さばーししてるんだから(あの連中は一緒になって悪さばかりしているんだから)」と使う。「こんてら」とも言い、いずれも蔑みの意味が入っている。
あんてら
あの体ら
冠婚葬祭と人々の繋がり
「あに(兄)」の転訛。姉は「あんね」である。間に「ん」が入ることで親しみを感じる。当時の農家には労働力が必要なこともあって、中学校を卒業しても農業の手伝いをして家に残る叔父叔母が多かった。兄姉の「兄んちゃん」「姉ちゃん」とは違った近しい存在の「あんに」や「あんね」は育ちの中で大きな影響があった。有り難いことであった。
あんに:あんね
兄
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家計や個人の体調などの勢いのことをいう。「いきぶいがあがる」とか「いきぶいをふっかいし(吹き返す)た」などと使い、「あそこの家はずいぶん「いきぶい上がってんね」といえば、家政が盛んなことである。村落社会では他人の家の「いきぶい」は殊のほか気になり、常々自分の家と比較していた。
いきぶい
息ぶい
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子どもの成長を祝う行事。誕生して1年が経つと、一升餅を背負わせて歩かせる。祖母は後々まで一升餅を背負(しょ)って歩いたことをうれしそうに話してくれた。ただ一升餅を背負ったままずっと歩いていると良くないというので、わざと転ばせたという。理由は何であろうか。今では誕生前に歩く子もは珍しくなく、一升餅の行事も少なくなり、餅も名入りなどにしてお菓子屋に発注している。餅が貴重な時代であった。
いっしょうもち
一升餅
冠婚葬祭と人々の繋がり
一人前の人として扱われること。そこからさらに、「子どものくせしていっちょうめーの口利いて(子どものくせに一人前の口を利いて)」と、否定的な意味で言われた。実力以上に生意気な口を利くことである。「ちょべちょべ」していることと同じである。
いっちょめー
一丁前
冠婚葬祭と人々の繋がり
一番奥の場所。特に沢筋の奥などの場所を指した。屋号が「いり」という家もあり、回覧板回しも大変な所であった。「いにさわ」と言っていたのは「入沢」のことで、一番奥の沢のことである。「入郷」など八溝の地形にあった地名の「入り」がつく所が多かったが、今はどこも空き家なっている。
いり
入り
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印鑑のこと。「印形付く」と言った。子どもの時期にも大人の世界では印形を押す機会があったのかも知れないが、宅配を含めて時代が進んだ今の方が印鑑を使用する機会が多くなった。家の中に三文判あちこちにある時代ではなかったから、印形は大事な時にだけ使った。すでに印形は死語となった。
いんぎょう
印形
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回覧板はあったが、急ぎの常会の開催などは伝言であった。大人が留守の時に、隣の婆ちゃんが言い継ぎに来て、何度も「だいじか。忘れねでいーつぎすんだぞ(大丈夫か。忘れないで言い継ぎするんだぞ)」と念を押された。家人に伝えることはもちろん、言い継ぎをしなくてはならないので、緊張したものである。隣に行って「今夜7時っから常会があんだと。言い継ぎお願いします」と間違いなく言い継ぎしてほっとしたものである。
いーつぎ
言い継ぎ
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跡取り息子は親戚や近隣の付き合いのため、将棋や囲碁を嗜まなくてはならないので、爺ちゃんが将棋を教えてくれた。縁側の日溜まりで、駒の動かし方の基本からずいぶん仕込まれたが、さっぱり腕が上がらない。爺ちゃんも諦めたのであろう、中学生になる頃には全く縁側将棋をしなくなってしまった。骨董価値のある碁盤と碁石が床の間に置かれているが、今までついに使うことがなかった。自分でも勝負弱さと緻密さに欠けることを自覚しているから、学生間で流行っていた麻雀にも手を出さず、もっぱら体を動かすことに熱中した。そのため、香辛料の入っていない料理のような味気のない人生になってしまった。
えんがわしょうぎ
縁側将棋
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掛け字に「お」が付いたので語末が省略され「おかけじ」となったと思われるが、「掛け軸」の最後が脱落したとも考えられる。床の間には絵や書の掛け軸が飾ってあるが、敬称の付く「おかけじ」は猿田彦様などが描かれ、神事の日に掛けられる軸である。当番の宿が保管し、お庚申様の寄り合いが終われば丁寧に丸めて次の宿に引き継ぐ。神様が宿る大切な掛け軸であった。「掛け字」は、字だけでなく絵画のものまで含むようになった。
おかけじ
お掛け字
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語頭に敬称「お」を付け、語尾に蔑称になる「め」を付けた。勧進は寺院の寄進のため金品の喜捨を受けるために各地を歩くことで、僧そのものを指すことになった。次第に物乞いの意味となり、乞食を指すようになり、「おかんじん」が「おかんじめ」となった。五木の子守歌にある「おどみゃ(私は)勧進勧進」とあるのも、「良か衆」に対して自分の貧しい身の上を「カンジン」と言った。九州と同様、当地方に残る古い言葉である。
おかんじめ
お勧進め
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竈(かまど)の神様。裸火を使うことから、火防の神にはいつも竈の近くにいてもらわないと困る。火防の神様は、近くは古峰ヶ原神社、さらに秩父の三峰神社、遠くは三州秋葉神社とか京の愛宕神社の神札までお飾りしてあった。愛宕神社は地域の神社として、大事に祀られていた。いつ頃、どのようにして京都の神様が小さな集落に勧請(かんじょう:迎え祀る)されたのであろうか、興味深いことである。
おがまさま
お竈さま
冠婚葬祭と人々の繋がり
来客が来た時に飲食の接待をすること。「お給仕」は、「手盆」でなく、小型の「お給仕盆」を使って勧める。「おぎゅうじ」の中には「お代り」を勧める心遣いも必要で、「一杯飯ちゃあんめよ。もっとおあがんなんしょよ(一杯飯ということはないよ。もっとお上がりくださいよ)」という。一杯飯は死人の食べ物だから、2杯食べるよう勧める。
おぎゅうじ
お給仕
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60日に1度回ってくる庚申(かのえさる)日の夜、持ち回りの宿(やど)に、男たちが集まって飲食をする日。床の間には猿田彦のおかけじ(掛け軸)を掛ける。年6回あるが、本来の庚申信仰とは違って、組内の親睦と農事の休暇の意味あいがあった。中学生になると、父親が宿直で出られない時には「名代」として酒宴の席に出て、酒を勧められることもあった。酒のキャリアは相当なものである。その後、葉煙草が作られなくなり、家の改築が進み、組内全員が詰まる座敷もなくなってしまった。補助金で地域公民館が作られ、各戸持ち回りから公民館での集まりになった。やがて、年1回の「仕舞い庚申」だけとなり、それも今はなくなってしまった。猿田彦の掛け軸はどこに行ってしまったのか。
おごしんさま
御庚申様
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お互いに対等にして、お返しなどを省略すること。「俺家(おれげ)方でも爺ちゃんの快気祝いやんなくちゃなんえげど(やらなくちゃならないけれど)、お互いに押し合いにすっぺ」ということで、どちらも快気祝いのやり取りはしないことになる。株の市場の押し合いと同じで、相場が動かないことと同類。良い言葉である
おしあい
押し合い
冠婚葬祭と人々の繋がり
「おじいちゃん」が転訛したもの。さらに「おじんつぁん」より「おじんつぁま」とすれば、丁寧な表現になる。自分の家族の祖父には「じいちゃん」と言って、よその家の爺ちゃんに対して「お」を付けて使った。「おじんつぁん」に対して「おばんつぁん」もいる。
おじんつぁん
冠婚葬祭と人々の繋がり
プラスとマイナスがちょうど合致すること。「少しぐれおっつげっちゃべ(少しくらいは合わせてしまおう)」とつじつま合わせをするが、あとでかえって「追っかなくなる」ことも多かった。人に追いつくこととは別な単語であろう。
おっつぐ
追いつく
冠婚葬祭と人々の繋がり
向こうに追い出すこと。「野良猫おっ飛ばせ」と言われ、戸外に追い出す。ただ追い出すのでなく、強引に追い出すことに使う。子どもも家中(いんなか)でコタツに当たっていると、「外で遊べ」とおっ飛ばされた。子どもたちの関心では、先生の異動で「あの先生はおっ飛ばされて別な学校に行ったんだと」と話題にする。
おっとばす
おっ飛ばす
冠婚葬祭と人々の繋がり
開くこと全般に使うが、多くは、秘密をしまっておけいないで、口外する時に使った。、いい場面では使わず、「あんて(あの人)は口が軽いんですぐにおっぴらかしちゃうんだ」などと言った。狭い地域であったため、「おっぴらかす」人がいるとすぐに話が広まった。同じような言葉に「おっぴろげる」があるが、こちらは物を広げることに多く使う。
おっぴらかす
おっ開かす
冠婚葬祭と人々の繋がり
思い切って押すこと。押し圧す対象はさまざまで、物にも人にも使う。「かまごどねがらおっぺしこんじゃべ」(構わないから押し込んでしまおう)と無理に入れると、後で収拾がつかなくなる。強引な性格であったから「押っペ仕込む」ことが多かった。
おっぺす(おっぺしこむ)
押っ圧す
冠婚葬祭と人々の繋がり
身を寄せ合うこと。寒いから仲間と「おつかって」日向ぼっこをした。姉弟が多かったので、夜も一人でなく「おつかって」寝ていた。今は一人で寝ているので「おつかって」くれる人がいない。支えをする「おっかる」は「交う」のあて字を充てて意味が違う。
おつかる
冠婚葬祭と人々の繋がり
出産をすること。産婦には「おとなしさま」と敬称を付ける。初産の時には実家に帰えってお産をすることもあった。村に一人だけの佐藤産婆さんが、自転車に乗ってやってきて取り上げた。裏座が産室であった。弟が生まれる度に、母親が遠くなったような気がした。
おとなし
冠婚葬祭と人々の繋がり
農事を休んで、集落の人が飲食などを共にする日のこと。「日待ち」は標準語である。町の商店からもらう暦には、大安や仏滅だけでなく、不成就日だから種を蒔かないとか、反対に一粒万倍日といって種蒔きをするのに好都合などと、様々な情報が記載されていた。「おひまじ」の回り番の宿に、集落全部があずばって(集まって)会食をした。中でも男衆の酒席は、普段は大人しい人が酔いの勢いで、畑の地境(じざかい)の不満を吐き出して言い争いになることも一再でなかった。その都度そこの母ちゃんが「ほら父ちゃん早く帰っぺ」と言っても、帰るっちゃね、連れ帰すのに一苦労していた。今はみんな勤め人になり、さらには年寄り世帯となって、寄り合いもなく、時に地区の集会場で常会をする程度になってしまった。
おひまじ
お日待ち
冠婚葬祭と人々の繋がり
産後21日間は、出産で血を流したことから、忌まれるものとして、産婦は産室にこもることになり、外便所に行く時も太陽に当たらないように顔を笠で隠しながら産屋を出た。21日経てば、汚れた蒲団を上げる床上げをして、新しい蒲団にかえる。産婦が家事などの仕事に復帰することになる。実家に帰ってお産をした産婦も婚家に帰る。本来は子どもの無事の誕生と産婦の肥立ちに配慮して、お祝いの日であった。農繁期の出産は、産婦の健康よりも家事や農事が優先され、ゆっくりと「産休」をとっていることは出来なかった。
おびあぎ(げ)
帯揚げ 産屋空け
冠婚葬祭と人々の繋がり
家庭の主、戸主のことで、現場監督や大工の棟梁ではない。親しい仲では「おやがたいるげ(おやじさんはいるか)」と訪問する。「たいしょう」とも言う。「大将」も一家の中心である。今でも近所付き合いの中で使われている。
おやがた
親方かお館
冠婚葬祭と人々の繋がり
昭和20年代から30年代にかけての日本人の平均寿命は60歳に到達していなかった。また、父親が戦死した家もあった。結婚の年齢も低かったうえに子供も多く、父親は下の方の子供が成人する前に亡くなることも多かった。親が亡くなれば、弟妹の結婚式も長男が親代わりとして一家を代表するのである。年齢の問題でなく、ポジションが人を造り、振るまい方も身につけていく。少子高齢化の時代には親代わりは不要になっている。それとともに、いつまでも大人の付き合いを知らない人たちも増えてきた。
おやがわり
親代り
冠婚葬祭と人々の繋がり
親の葬儀を行うこと。長男が喪主を務めるが、家を出た姉弟妹もそれぞれ帳場を設けてお返しもする。喪主だけの帳場の場合、葬儀の後に兄弟分の香典をそれぞれで弔問客によって分けることになる。経費もまた分担する。今は喪主が葬儀代やお寺の払いもする代り、香典は喪主が預かることになる。費用に過不足があっても喪主の責任である。葬儀場で告別式をするようになって、地域独自の葬儀のしきたりもなくなり、「親仕舞い」という言葉もなくなった。
おやしまい
親仕舞い
冠婚葬祭と人々の繋がり
越後一の宮の弥彦神社を勧請した3地区の小さな神社である。祭礼のお札には「伊弥比古神」と書かれていた。嵐除けの神である。伊弥比古がなぜ「おやひこさん」であったかは知らないままであったし、また、日本海側の神が関東の、それも内陸の山間にお出ましになったのか不明である。年に1度の祭日には赤飯を炊いて神棚に上げた。祭礼の日は農事を休む「こと日」でもあったから、農家にとって重要な日であったのであろう。
おやひこさん
お弥彦さん
冠婚葬祭と人々の繋がり
自分の家のこと。家庭内や家格のことまでに及ぶ。子どもたちが「俺家(おらげ)に遊びに来や」と、自宅に招待する。大人は、「あそごと違うんだから、おれげじゃそうだに息張ってお付き合いでぎねよ(あそことは違うのだから、家じゃそんなに無理してお付き合いはできなよ)」と、釣り合わない交際はしないことにしている。何事につけ昔からのしきたりが優先し、「俺家」と「あんた家」のバランスを取らなくてはならない。
おらげ(おれげ)
俺家
冠婚葬祭と人々の繋がり
ホウレン草や菜っ葉の「おろぬき」は、今でもそのまま使っているが、仕事で手加減をしたり、人を仲間から外す時にも言う。「おろぬき」は共通語であるが、八溝のような広い意味での使い方はしない。日常の農作業が生活や人間関係まで広がった言葉である。近所付き合いでも「おろぬかれない」ように気遣いが大変である。
おろぬく
疎抜く
冠婚葬祭と人々の繋がり
京都の愛宕神社のことだが、子どものころは意味は分からず、ただ火防(ひぶせ)の神様であることだけは知っていた。村の中心にある均整のとれた山を「おわだご山」と呼び、村社の戸隠神社の境内社として愛宕神社が祀られていた。竃(かまど)の柱に貼られていたお札は難しくて読めなかったが、「おわだごさん」という神であることは知っていた。火防の神様が村にとって大切な神であった。
おわだごさん
お愛宕さん
冠婚葬祭と人々の繋がり
伯父や叔父の敬称で、さらに「おんちさま」と敬意を高めることもある。父親の世代は兄弟が多く、叔父が同じ家に生活しているということは珍しくなかった。同じように「おんば」も同居し、家によっては叔父叔母より年上の甥や姪がいることもあった。「おんじ」と言う時には特に父親の弟をさし、就職や結婚で余所に出ていっても、叔父と甥の関係は特別で、せな(兄)よりも格上であった。
おんじ
叔父
冠婚葬祭と人々の繋がり
「長男の甚六」とともに、大事にされて育った子どものこと。言外に機敏でない跡取り息子のことになる。家を守る長男は、あんまり「はしっこく」て利に聡いようでは人が寄りつかないから、「おんぼこ」くらいでちょうど良い。
おんぼこ
冠婚葬祭と人々の繋がり
倹約して無駄をしないこと。褒め言葉でもあるが、時として蔑視の感もある。「かだぐしてっからのごっぺ(倹約しているから、金が残るだろう)」という中には、あまり付き合いの良くないことも含まれる。農家で代々財産を減らさず受け渡していくことが何より大事なことだが、程度を越えて固すぎると組付き合いもうまくいかない。頭が固い人もいる。婆ちゃんの「かだくしろ」というのは、必要な時には無理してでも払い、一方で無駄な支出はするなと言う明治の教えであったろう。
かだい
固い
冠婚葬祭と人々の繋がり
馬頭の町は、周囲の農村を相手とする商業の町であった。さらに茨城県と那珂川の河岸を繋ぐ「大子街道」(茨城では馬頭街道)の中継地としての機能も持っていた。このような町の一般的な特徴として、出入り口は曲金(まがりかね:曲尺のこと)のように直角に曲がることになる。「かねんて」である。鉤の手でなく、大工道具の曲尺(かねじゃく)の「かね」である。町議会で「曲んての道路改良」について議題があった。今でも使われる言葉で、半ば地名になっている。
かねんて
曲ん手
冠婚葬祭と人々の繋がり
旧暦の12月1日の朝になると、祖母に連れられて下を流れる川に行った。パンツをまくられて尻を凍えるような水に漬けられた。子どもが水難に遭わないようにとの祈願であった。子どもの頃は、「川浸り」が「かぴたり」であることは分からなかった。「かぴたり餅」を搗いて川に流し、それを拾ってきて焼いて食べるのも習わしであった。
かぴたり
川浸り
冠婚葬祭と人々の繋がり
旧暦の7月1日、地獄の釜の蓋が開き、先祖様が戻ってくるお盆の始まりとした日で、今は月遅れ盆に合わせて8月1日に行う。この日はおまんじ(おまんじゅう:炭酸饅頭)をお供えした。仏様には失礼だが、この日がどういう意味であるかは分からず、ただ饅頭が食べられることだけがうれしかった。饅頭はたくさん作って、ざるに入れて、風通しのよい北側の軒下にぶら下げて置いたが、翌日には餡こが饐(す)え臭かった。
かまっぷた
釜の蓋
冠婚葬祭と人々の繋がり
手土産なしの手ぶらで余所に行くことで、「からってんぼで来ちゃって」と言い訳する。初めから用意をするつもりでなくとも、挨拶用語として使い、もてなす家人も「なんで、そうだごとかまねんだよ(どうして、そんなこと構わないんだよ」と受け応える。当時は、家屋が中まで見える解放感のある構造であったから、隣近所の行き来も多く、年寄りたちも半日もおしゃべりしていた。今は玄関から上がり、客間もあるので、改めてでないと余所を訪問することに気兼ねが要り、「からってんぼ」では行きにくくなった。
からってんぼ
空手棒
冠婚葬祭と人々の繋がり
「3時絡まり」と言えば、3時前後のこと。時計がない時代だから30分遅れぐらいは許された。年齢や時間には使う。ただ、場所についての「付近」という意味では使わない。学校教育で時間に厳しく教育されるようになって、「からまり」では済まなくなって、言葉も死語になった。残しておきたい上品な言葉である。
からまり
絡まり
冠婚葬祭と人々の繋がり
かわいい跡取りは「かんぞう息子」である。可愛がられた分、気遣いの出来ないのんびりな性格になる。「ぞう」は、可愛がられて育った「末子の馬鹿ぞう」と共通するものか。やや蔑視されるような点も共通している。
かんぞ(う)
冠婚葬祭と人々の繋がり
当事者以外の周囲の人。「がわがうるせから(周囲がやっかいだから)」と近所に気を遣うことが多かった。「がわ」は人だけに使うのでなく、機械のカバーなどにも使った。当時の農機具はよく壊れた。「エンジンのがわが外れちゃう」ことも多く、農家の人は農機具修理にも精通していた。
がわ
側
冠婚葬祭と人々の繋がり
「ぎゃくえん」とは発音しなかった。長男が若くして死んだ際に、弟が義姉と結婚すること。標準語の、子どもの供養を親がするという逆縁ではない。家系を絶やさないために農村では「逆縁」が珍しいことではなかった。夫婦二人ともどんな気持ちであったろうか。家を中心とする当時の風習として多く行われたから、今思うほど抵抗はなかったのだろうか。
ぎゃくいん
逆縁
冠婚葬祭と人々の繋がり
結納のことで、樽入れとも言う。集落にも若い未婚の女性が多く、結婚話も稀ではなかった。そんな時耳にするのが「くちがため」で、結納という言葉は聞かなかった。我が家でも、小学生まで同居していた叔父と叔母がいたので、「口固め」の日は仲人を交えて小宴があった。詳しくはどのように行われたか記憶がない。もちろん小学生は宴に参加していない。
くちがため
口固め
冠婚葬祭と人々の繋がり
周囲、近所隣のこと。「家のぐるわの木の葉きれいに掃いとけ」と言う時は建物の回りである。「ぐるわがうるせ人ばっかりだから(周囲の家がうるさい人ばっかりだから)」と周囲の人の目を気にする。狭い集落では、「げいぶ(外聞)わりー(悪い)」からと、「ぐるわ」を気にした。
ぐるわ(ぐるり)
冠婚葬祭と人々の繋がり
標準語の「外聞」が転訛したもので、他人の評価や噂などのこと。「げーぶわり」と連語として使われる。山間の狭い地域では隣近所では評価を気にしなくてはならない。そのため、何事につけ「げーぶわりーから(人聞きが悪いから)」と様々なことで行動に制約が加えら、その結果規範意識が醸成された。世間体を気にし過ぎるのはいかがと思うが、昨今はあまりにも無頓着な風潮になっている。子供たちが社会性を身につけるために、「げーぶ(世間体)」をもう少し考えさせた方がいいのではないかと思う。
げーぶ(ん)
外聞
冠婚葬祭と人々の繋がり
どの家も漏れなくという意味。「家ごめ」ともいう。組内ではなにごとにつけ連帯感が重視されたから、共同作業の時には抜けることができない。出られない時には手間賃相当の「割金」を出さなければならなかった。男手でないとダメな時には、父親が日直があって出られなかったこともあったので、中学生の時には一人前として、道普請にも出ることになった。大人よりは真面目にしっかり働いたので非常に疲れた。次第に、大人の仕事ぶりを見て、要領よく休みながらやることを覚えた。
こごめ
戸籠め
冠婚葬祭と人々の繋がり
大事な日の意味で、神事(かみごと)とも言い、農作業を休む日であった。お念仏の日には女衆はお堂に集まって大きな数珠を回しながら念仏を唱え、終われば持ち寄ったお煮染めなどでお茶を飲む。同席していた子どもでも「オーナボーキャ」と、念仏を覚えた。御詠歌の詞章を知らない若い嫁様は気詰まりのことであったろう。神事だけでなく、時には雨が降ると「雨っぷり神事」といって農作業を休むこともあった。厳しい労働の日々の中で、一人だけ休むには気が引けるが、みんなで休める日は心も安まった。今は勤務先の都合で休むので、「こと日」がなくなった。
ことび
事日
冠婚葬祭と人々の繋がり
お金を崩すこと。手元に小銭を持っている家は多くなかったから、学校の集金で小銭が必要な時には、1キロ離れた店まで行って両替をしなくてはならなかった。そのまま「こわし」てもらうのは気が引けるから、ほんの少しの物を買ってお釣りをもらう。いつも現金を持っているお店はいいなと、羨ましく思った。お金を「こわし」に行っていた店もなくなってしまった。今でもお店の跡にはホウロウ看板の「盬売捌所(しおうりさばきじょ)と書かれたものが掲げられている。今は標準語で「くずす」という。いずれも形をなくすことに由来する。
こわす
冠婚葬祭と人々の繋がり
「ざんばらい」ともいう。組内の葬儀の精進揚げなど、寄り合いで、当家の都合も考えずいつまでも飲食をして席を立たない人のこと。精進揚げは板の間に茣蓙を敷いて行ったので、時間が来れば組内の人たちは片付けを始め、時間になれば男衆も引物を持って帰る。いつものことだが、一人だけ、酒を飲んで動かない人がいる。女衆は茣蓙をわざわざ叩いて急かせるが、いっこうに動こうとしない。いつも同じ人であった。
ござっぱたき
茣蓙っ叩き
冠婚葬祭と人々の繋がり
祝儀はお祝いごと全体を指す言葉だが、子どものころの御祝儀は結婚式のことである。中でも嫁様が来る御祝儀は楽しみで、ハイヤーの前に酒樽を飾ってやって来るのを今か今かと心待ちにした。御祝儀は自宅で行ったから、無遠慮な子供たちが集まり、「どんな嫁様だんべ」と興味津々であった。今は、祝儀といえばのし袋に入ったお金ことを指すようになった。
ごしゅうぎ
御祝儀
冠婚葬祭と人々の繋がり
「御託」は『広辞苑』に、「御託宣」のことで、くどくど言うこととある。託宣の元の意味は、神からのお告げであるが、やがて別な使われ方となった。言い訳していると「いつまでもごたく並べてんじゃねーよ」と言われる。有り難い「御託」がひどく成り下がってしまった。
ごたく
御託
冠婚葬祭と人々の繋がり
ものの先頭のこと。そこから、人に先駆けてやる、またその人。時には出過ぎた人のことも指す。「さきっぱな担いで調子込んで」と言うこともある。なにごとにつけ「さぎっぱな」は批判されることが多い。
さきっぱな
先っ端
冠婚葬祭と人々の繋がり
「さた」と言えば標準語で、「知らせ」という意味で、「ご無沙汰しています」と使われる。沙汰の中でも、葬儀の「さだ」は組内でも重要なことであった。班長さんを中心に、親戚の一覧を作り、親疎の別を当家に確認して、近い所は直接出向く「飛脚」が知らせ、遠いところは郵便局で電報を打つ。電話がない時代は「さだ」するのも大変であった。
さだ
沙汰
冠婚葬祭と人々の繋がり
陰暦23日の月待ち講。女性だけの集まりで、1月、3月、7月、10月に行われ、お念仏を唱える。順番に宿が回ってくる。当時すでに母親が宿主になっていたが、いつどのようなタイミングで交代してのであろうか。女衆だけの集まりであったから、組内の人間関係もよく分かった。母親と同世代で、町の方から嫁に来ていた人がいたので、農業経験のない母とは何かと気が合っていた。どちらの夫も公務員であったから、組内でも他のご婦人からの当たりがあったことは、子どもにも想像が付いた。
さんやさま
三夜様
冠婚葬祭と人々の繋がり
田舎っぺのことで、「ペ」は蔑視の接尾語である。在は町に対する言葉で、農村部を指した。在に郷を付けた在郷は「ざいご」と言い、何かにつけ遅れていることを意味していた。町の子どもからは「在郷っぺ」と蔑まれた。高校で下宿をして、食生活や言葉のなど、改めて自分が「在郷っぺ」であることを自覚した。今は町の中学校までスクールバスで通っているから情報量が同じで、在郷に住んでいても「在郷っぺ」とは言われない。
ざいごっぺ
在郷っぺ
冠婚葬祭と人々の繋がり
「ざんそ」が濁音化した。菅原道真は藤原氏の讒訴によって太宰府に流された。事実でないことを目上の人に告げ口をすることを讒言(ざんげん)という。きわめて難しい言葉でありながら、陰口と言う意味で当地方に伝播し定着したのはどうしてだろうか。海を通して千葉や茨城から関西の言葉が伝播してきたのであろう。年寄りが寄り合えば嫁の「ざんぞ」話になることが多かった。
ざんぞ
讒訴
冠婚葬祭と人々の繋がり
最後の残り飯を食うこと。また、最後まで残って飲食をしている人のこと。「ござっぱたき」ともいう。祭りの直会(なおらい)があり、酒が入ると、普段は大人しく黙っているのに、勢いがついて、日ごろの鬱憤を晴らすように地境のことで難癖を付けたり、悪口を言って周囲を困らせる。女達はいつまでも片付けが終わらず、茣蓙を叩いて「茣蓙っ叩(ぱた)き」をするが、それでも席を立たない。困り果てたおっかが「とうちゃん早ぐ帰っぺ」と急かすが、聞くっちゃない。次の日にはケロッとしているから周囲はいっそうおもしろくない。そんな田舎での残払いの習慣からか、今でも宴会では最後まで残ることが多い。
ざんばらい
残払い
冠婚葬祭と人々の繋がり
77歳の喜寿の祝いのこと。火吹き竹を近隣に配ることから「火吹き竹祝い」ともいう。70歳が古希と言われるほどだから、半世紀前までは77才歳は長命とされた。火吹き竹には、火の神が宿り、無病息災の御利益があったのであろう。今は77才は平均寿命より若いので、あまり貴重な年祝いとされず、「しちぼこ」の祝いもなくなってしまった。
しちぼこ
冠婚葬祭と人々の繋がり
舎弟と書くとやくざ用語ような印象があるが、「しゃで」は日常的に使われていた。兄は「せな」で「せなさま」と尊称を付ける。「しゃでが嫁もらうごどになったよ」と長男が自分の弟について言う。「あんたげのしゃで東京にいぐんだとね(あんたの家の弟が東京に就職するんだね」と他所の家の弟にも使う。普通に使って言葉である。
しゃで
舎弟
冠婚葬祭と人々の繋がり
「しょっぱい」の転訛。味覚として塩辛いこととともに、人間関係でも簡単に承諾できないことに使う。味が塩辛すぎる「しょっぺな」と使う。塩が利いていないと、「甘くてだめだ」という。頼んだげど、「しょっぺな」と断わられる。「しょっぱい」顔をするのは、物事が円滑に行かないからである。味覚よりも人間関係に使うことが多かった。
しょっぺ
塩っぺ
冠婚葬祭と人々の繋がり
身上を「しんじょう」と読めば、個人の経歴や履歴のことであり、「しんしょう」と読めば、財産や地位のことになる。「あそこはしんしょう持ちだ」と言えば土地や財産を持っている家を指した。「そうだに(そんなに)無駄遣いをしていると、しんしょうなくしっちゃうぞ」と、日ごろから注意を受けていた。長男は、先祖代々の「しんしょう」を大事に守って行くことが何より大事なことだった。ところが、中山間地では時代とともに「しんしょう」であった家屋敷、田畑や山林も荒廃し、むしろ負の遺産となっている。我が家も空き家になって久しい。「無駄な税金払って」と町育ちの家人から攻撃される。そんでもやっぱり「しんしょう」だから壊せない。
しんしょう
身上
冠婚葬祭と人々の繋がり
親戚でも遠縁のこと。山村では狭い通婚圏であったから、何代か遡れば多くが「しんせきっぱじ」になる。普段は意識していなくても、葬式になると、この家も親戚であったかと驚くこともある。長男はこの付き合いを大事にしないと不義理をしたことになるので、気遣いがたいへんである。「しんせきっぱじ」で葬式があれば、古い香典帳を開き、いくらもらっているかを確認し、今の相場と比較して額を決める。代替わりが出来ないことで、年寄りたちの負担になっている。
しんせきっぱじ
親戚っ端
冠婚葬祭と人々の繋がり
本宅に対して分家のこと。我が家は「しんや」であった。墓碑などから見て江戸時代には分家していたと思われるが、屋号は今でも「しんや」である。分家と本宅の関係はいつまで経っても変わらない。親戚付き合いでも中心にはなれない。気持ちの面でも「新屋」はどこか引け目がある。ただ、地域社会の大きな変化の中で、「新屋」の方はすでに空き家になり、本宅とも疎遠になってしまった。世代代わりして、交流がなくなるのもそう先のことではない。
しんや
新屋
冠婚葬祭と人々の繋がり
義理の関係でなく、血縁のある関係のこと。本来は実の子どものことを指したが、「じっしの親」などと、血縁のある親子兄弟、祖父母にも範囲を広げて使う。元の意味の「実子」が変わってしまった。山間の村では人間関係が重視されるから、誰がどこから嫁に来てなどについて関心が高く、「実子」であるか「養子」であるかはきわめて大事である。婿さんは死ぬまで婿さんであった。
じっし
実子
冠婚葬祭と人々の繋がり
大きな声を出す意味だが、単に大声でなく、怒気を表すことにも使う。農家は建坪が大きく家に中でも大声を出さないと声が届かない。まして戸外で作業している時は、「父ちゃんお昼だよ。早ぐしなせ(早くして)」と隣にも聞こえる大きな声で「じなる」。家中がいつでも「じなりっこ」している雰囲気である。今でも場の雰囲気を考えずついつい大声になってしまうことがある。
じなる
地鳴る
冠婚葬祭と人々の繋がり
技術が至らず、他の職人からの指示で動く者のこと。茅葺き屋根を葺く茅手(かやで)は、冬になると会津の方からやってくる職能集団である。屋根の上での仕事が中心であるが、高い所で仕事には茅や竹などの材料を下から供給する者がいる。親方に言われるまま周囲を走り回り、長い竹の先に茅の束を屋根の方に差し出す「じはしり」である。能力が無くて、人の指示で動く人も「じはしり」という。ただ、「てっぺん」に上る人ばかりでは社会が成り立たない。時には、意図的に「じはしり」に徹することで、支えたり支えられたりが必要である。
じはしり
地走り
冠婚葬祭と人々の繋がり
地這え胡瓜は、支柱をしないで、地面を這うことからの命名だが、「地生え」は地元で生まれ育った人を言う。八溝の山村は、他所から来る人は嫁さんぐらいだから、地域全部が「地生え」によって構成されていた。このことは良さもあり、欠点でもあった。ただ、外部からの移入者もなく、地生えが高齢化し、過疎化に拍車が掛っている。
じばえ
地生え
冠婚葬祭と人々の繋がり
坊様が葬儀に使うシンバル状の仏具である妙鉢(みょうばち)の音が語源だと言うが、どのような経過で葬儀のような重要な儀式の意味で広く使われるようになったのだろうか。同じ町内でも「じゃんぼ」といったり、「じゃんぼー」という所もある。我が方では「じゃーぼ」と言い、葬式の時だけの付き合いである「じゃーぼ親戚」もいるし、葬儀の引物の焼き饅頭は「じゃーぼまんじょう」であった。「じゃ−ぼ」が終わるまでは人の出入りも多く、悲しみの癒されていたが、少しずつ人も少なくなり、泊まりで来ていた親戚も帰ると、家中がひっそりして寂しさが急に募ってくる。
じゃーぼ
冠婚葬祭と人々の繋がり
数え年13歳になると、茨城県東海村の村虚空蔵さんにお参りをする。5年生の春休みに学校行事でバスを借り切って参拝した。誰も海を見るのが初めてであった。虚空蔵さんは印象に残っていなかったが、本物の海を見て、ただただ驚いていたことを覚えている。波にさらわれそうで、波打ち際から離れて遠巻きに眺めていた。学校で習った社会の地図と違って、太平洋と日本海の方向が右左反対で、何とも納得できなかった。もっと早く海を見ていれば、違った人生があったのではないかと思うことがある。今でも海を見ると異常に興奮する。
じゅうさんまいり
十三参り
冠婚葬祭と人々の繋がり
古語辞書では「夫な」、「兄な」とあり、万葉集の東歌には妻から夫を呼ぶ時に「せ」の用例を載せている。時代が下がり、「兄」の意味で用いられるようになった。ただ、兄弟でも長兄にのみ使う。一家の家長となるべき長男は、家屋敷を守り、神仏の祭祀を継承し、隣近所の付き合いもしていくという大事な存在であった。子供のころから特別扱いされ、親戚に行けば、次男三男とは小遣いの額も違った。そのため「長男の甚六」と呼ばれるように、のんびり育ってしまうことも多い。次男三男は外に出るのだから、「はしっこい」くらいでちょうどよい。「せな」に対して姉様は「あんね」であった。
せな
冠婚葬祭と人々の繋がり
標準語であり、普通に立っているものを倒すことにも使うが、特に、貸したのに返してもらいない時に「倒される」と受け身で使う。子どもの集団の中でも、しばしば貸した借りのトラブルがあり、返えさない者が得をすることもあり、「倒され」ても泣き寝入りすることがあった。
たおす
倒す
冠婚葬祭と人々の繋がり
新盆の家で、角先に立てる灯籠。竹の先に杉の木を繋ぎ、仏様が間違えずに帰宅出来るように目印としたした灯籠。座敷などに置く灯籠と違って、高いことからの「高灯籠」で、「たかんどうろう」と転訛した。
たかんどうろう
高灯籠
冠婚葬祭と人々の繋がり
標準語でも、上棟式は建前という。吹き流しや5色の布を立て、祭事を済ますと、大工の頭領や施主が餅の他に10円玉などを撒いた。組内のみんなが集まり、拾うと言うよりもキャッチして歓声を上げた。「慌てる乞食はもらいが少ない」と言われていたが、少しでも拾おうとして、あちこちするとかえって拾う数が少なかった。これは人生の中で同じようなことが続いた。やがて造作すべてが完成すれば、お披露目のお祝いである「わた(だ)まし」が行われる。「隣で蔵が建つと腹が立つ」というように、お祝いしながらも内心は穏やかでなかった。
たてめー
建前
冠婚葬祭と人々の繋がり
村には半道(はんみち:約2キロ)置きに雑貨屋さんがあった。タバコや塩の専売品はもちろん「あけぼの」の鮭缶や「まるは」の鯨缶などが並び、文房具なども置いてあった。お店は屋号でも呼んでいたが、「みせ」、あるいは「たな」と言っていた。
もともと「たな」は商品を陳列して見せるための棚でって、棚から下ろして帳面と現品が合致しているかの確認は棚卸しである。棚が商店そのものを指すこととなり、村の生活を支えていた。爺さんの使いで、徳利を持って「寶焼酎」の量り売り、刻みタバコの「みのり」を買いに行った。もちろん駄賃があり、おまけ付きキャラメルが楽しみであった。今は村中の「たな」が消えてしまった。
たな
店
冠婚葬祭と人々の繋がり
毎年暮れになれば世話役が各戸に「天照大神」と書いてあるお札を配って歩いた。神様の読み方は知らず、「テンテルダイジン」と呼んだりしていた。神棚に新しい「だいじごさま」をお飾りし、鏡餅も供えて正月を待った。神様の中で一番偉いという意識はあったが、神様の出自などについては全く知識はなかった。伊勢の大神宮が「だいじごさま」になったことを知ったのはずいぶん後になってからである。子どもの頃からのお勤めであったから、転居しても分祀した小さな神棚の「だいじごさま」に水を上げ、毎日拝礼をしている。
だいじごさま
大神宮様
冠婚葬祭と人々の繋がり
駐在所のこと。合併前の村役場があった集落に駐在所もあった。警察官は村の名士で卒業式などの時にはいつも来賓席に座っていた。悪さをしていると家人から「警察に縛られっちゃうぞ」と脅かされていたから怖い存在でもあった。一方で家族で赴任する駐在所は、村にはない町の雰囲気を持ってきた。駐在所に女子中学生がいたが、バスで町の中学校に通っていて、村の中学校には転校しなかった。駐在所の近所の同級生が、「笛みでの吹いてたぞ(笛のような物を吹いていたぞ)」などと何かと話題を提供したので、想像を膨らませたが、田舎の中学生にとって遠い存在であった。
ちゅーざい
駐在
冠婚葬祭と人々の繋がり
帳面に記録する。帳付け。香典を出すと帳場で記録する。香典を出した人は「つけてもらった」ことになる。香典だけでなく祝儀や見舞いも「付ける」から、広く香典や祝儀を出すことそのものを指すようになった。「こんだ(今度)の御祝儀はいぐら付くんだい」(今度の結婚式にはお祝いいくら包むの」と聞く。「そうさな、今日日(きょうび)は農協会館での振る舞いだがんな(そだな、最近は農協のホールでのお披露目だからな)」と、判断に困る。
つける
冠婚葬祭と人々の繋がり
責任回避のこと。語源は「つっかけ畚(もっこ)」。畚の「先棒」担当と後棒担当が、それぞれ役割の責任転嫁をすることであろうか。隣組の役などが回ると、お互いに「つっかけもち」をして、なかなか決まらない。みんな黙っていると、その雰囲気に負けて声を出すと、それを契機にみんなから推薦されてしまう。
つっかけもち
冠婚葬祭と人々の繋がり
落共同体の単位を言い、上坪とか中坪と地域名としても使っている。元来は奈良時代の条里制に始まり、行政の小さな集落単位を指したいた。「つぼ」よりもさらに小さな単位の班があり、班長さんが回覧板や言い継ぎの手配をする。最近は高齢化で班が維持できず、さらには班抜けする人もあるので、いくつかの班が統合されている。私が班の中で一番先に抜けて、過疎化の先駆けとなってしまった。
つぼ
坪
冠婚葬祭と人々の繋がり
水に潜るのでなく、人目に付かないように身を潜めることである。かくれっこ(かくれんぼ)をしている時にお茶ぼら(茶の株)下に「つんむぐって」じっとしている。いたずらをして、怒られると、人のせいにしてみんなの中に「つんむぐって」知らない振りをする。上手に「つんむぐる」ことは子どもの頃からのトレーニングで身に付いたもので、今まで何とかやり過ごしてきた。
つんむぐる
つん潜る
冠婚葬祭と人々の繋がり
親方の下で下働きをする者をいう。土建業の現場監督は「てご」を使い、腕のいい大工も見習いのテコを使っていた。親方の意のままになる使用人の意味であった。修業をして「てこ」を使うことが出来る親方になる者もいたが、いつになっても自立するだけの技能と才覚に欠けて「てこ」のままの者もいた。
てご
手子
冠婚葬祭と人々の繋がり
手を差しのべて良く面倒を見ること。「てな」は掌(たなごころ)が転訛したもの。飼っている馬も「手なご」して育てるが、野菜も支柱を立てたりして「手なご」する。ナスの生育が悪いと「良ぐ手なごしねがんだ(しないからだ)」と言われた。まだまだ中年以上では使われる言葉である。
てなご
手なご
冠婚葬祭と人々の繋がり
県内ばかりでなく関東地方でも広く使われている。必要以上に顔を出したり、他人の会話に口を挟んだりする目立ちたがり屋をいう。狭い付き合いの中では人との関わりが難しいが、何かと口を挟んだりする「ですっぱぎ」は嫌われる。
ですっぱぎ
冠婚葬祭と人々の繋がり
一般に偶然に人と出遭うことに使い、「久しぶりだね」と言って人と「でっかせ」たことを喜ぶ。他に「話がでっかせた」と相手と意見が合うことにも使い、大工さんは「穴がぴったりでっかせた」とも言う。また「ちょうどでっかせた大きさのバケツがあるよ」と、要望に合致することにも使う。人間関係で気が合う「ことの「でっかせ」が何よりである。
でっかせる
出会す
冠婚葬祭と人々の繋がり
「でど」は出身地のことでる。山間の人たちは固定した人の間で生活しているので、相手の「でど」が分かって始めて親しい付き合いが出来るようになる。「嫁様のでどはどこだんべか」と言うときに、広く出身地としての地域を指すこともあるが、個人の家を指すこともある。「まけ」は「でど」と違って血筋のことで、「ちみち」ともいう。「でど」以上に人間関係で影響力をもつ。
でど:まけ
出所 族
冠婚葬祭と人々の繋がり
人の前に出ることで、でしゃばること。出張することではない。何事にも人の前で目立つことをしたがる人がいる。みんな横一線を良しとしている村落共同体では、面と向かっては言わないものの、出張る人は好まれない。いつでも「出張る」人がいるが、組織の中でバランスを取らないと嫌がられることになる。
でばる
出張る
冠婚葬祭と人々の繋がり
後妻のこと。不仲で離縁するよりも、出産後の肥立ちが悪く、亡くなる人が多かった。子育てや家事、さらには農作業のためにも後妻はなくてはならない。前妻の子どもと同じ年の連れ子と一緒のこともあった。大切な存在だから「到来様」と敬語をつけた。
とうらいさま
到来様
冠婚葬祭と人々の繋がり
土葬の際に棺桶の穴を掘ること、あるいはその役になった人。当番が決まっていたので、四人一組で墓地に行って、仏様の骨が出ないような所に穴を掘る。これは組内の先輩がよく知っていた。それでも骨が出てくることもあった。背丈ほど掘ったろうか。葬儀の当日は「六尺」と言って、棺桶担ぎも床掘りの仕事であった。土葬は、生と死がほんの隣り合わせであったが、今は火葬になり、「床掘り」も要らず、葬儀全体が業者任せになって、集落から離れた火葬場に行くから、死が身近なものでなくなった。
とこほり
床掘り
冠婚葬祭と人々の繋がり
渡世人と言えば、賭け事などを仕事としている人を指す。一般に渡世は生業のことを指すが、当地方の年寄りは、真面目という意味で使った。タバコの葉を熨す夜割りの時に、眠くて少しでも手を抜くと、婆ちゃんから「とせいにしなくちゃ(真剣にしないと)」と怒られた。由緒のある言葉であるが、今は全く使われない。
とせい
渡世
冠婚葬祭と人々の繋がり
土台を固めるため、30センチほどの長さにした重い丸太に4本の柄を付け、二人で持ち上げては勢いよく地面を突き固める作業をいう。砂利を入れて固めたところに自然石の土台石を据えて、束(つか)を建てる。コンクリートで土台を固めるのでなく、もっぱら自然石が土台に使われた。その際「胴突き」は不可欠である。今はエアーハンマーなど機械が転圧をしくれるので、胴突きは死語となった。
どうつき
胴突き
冠婚葬祭と人々の繋がり
本来は富山の売薬を「毒消屋」と言うのだろうが、八溝に来たのは富山と奈良の売薬さんで、どちらも「毒消屋」であった。背中には数段になっている柳行李を背負い、各戸を回り、薬箱を点検し、使ったものを補充して精算をする「先用後利」という仕組みである。お土産の紙風船などをもらうのが楽しみであった。背中に荷物を背負っているので、歩く際に手を両脇に振ることが特徴で、子どもたちも、手を横に振る歩き方を真似た。薬品名の「ユイツ」、「ノーシン」、「ケロリン」、「ムヒ」などのネーミングも印象的で、1度で覚えられた。空き家には薬箱が3つ残っている。その内の一つは奈良県の薬屋のもので、「陀羅尼助」と書いてある。大峰山の修験者の流れを汲むものであろう。今も日帰り温泉には「ケロリン桶」が置いてある。
どっけしや
毒消屋
冠婚葬祭と人々の繋がり
長居することで、婆ちゃん同士がお茶のみをしていると、半日(はんぴ)は囲炉裏端にぶちかって(座る)、讒訴(ざんぞ:悪口)を言って過ごす。最後に「長っ尻で悪がったね」と言っうと「なんで、まだ来ておごんなんしょ(またきてください)」という挨拶になる。組の集りでも最後まで飲んでいると「あんて(体:てい)はいつも長っ尻だがら(あの人はいつも長っ尻だから)」と言われる。
ながっちり
長っ尻
冠婚葬祭と人々の繋がり
人が死ぬこと。人の死を直接的に言わず「亡くなる」と言うのは一般的なことであるが、当地方では「なぐれる」という。「れる」は様々な言葉について、尊敬や受け身、さらには自然に物事が進む時などに使う。亡くなると違って「なぐれる」という表現には、人知や意志ではどうにもならない死という重大事を受け止め、また、死んだ人に敬意を表する気持ちが込められている。大切にしたい言葉である。
なぐれる
亡くれる
冠婚葬祭と人々の繋がり
埋めること。前のめりになることではない。土葬の時には、床掘りをして棺箱ぐし(がんばごごと)「のめる」のが当たり前であった。土葬もなくなり、「埋(の)める」という言葉もなくなった。大根などを土に埋めておくのも「のめる」とともに「生ける」と言った。瑞々しいまま地中に「のめた」からであろう。
のめる
冠婚葬祭と人々の繋がり
儀式や宴などを主催することをいう。冠婚葬祭を自宅で行っていたので、長男は、生涯に何度も「はなえる」機会があった。当日の接待だけでなく、事前の準備も「はなえる」ことに含まれる。蔵には客寄せするだけのお膳やお椀があり、座蒲団も20枚ほどあった(鼠の巣になっていたのもあった)。今は自宅で「はなえる」ことがなくなったから、お金のことだけを心配すればいい。当家のご婦人の負担が少なくなったことはなによりである。
はなえる
冠婚葬祭と人々の繋がり
「はんにち」というのが普通だが、八溝では「はんぴ」という。「雨が降ってきたから今日は半日(はんぴ)で上がっぺ(雨が降ってきたから今日は半日で仕事を終わりにしよう)」と、普通に使っていた。音読みの「半」と訓読みの「日」が一緒になってやや不自然だが、耳にはよく響く。学校も午前中授業の時は「半日」で帰る。
はんぴ
半日
冠婚葬祭と人々の繋がり
「ばっち」は末の子を「ばっし」と読むのが訛ったものである。戦後はどの家でも子供が多く、四人や五人は普通であった。長男はぼんやり育ってお人好しのため「甚六」と呼ばれ、次男は「はしっこく(すばしっこく)」て要領よく振る舞った。「ばっち」はいつまでも甘えているので「ばっちのバカゾウ」と呼ばれていた。遊んでいても「小さいんだから」と特別扱いを受けた。
ばっちっこ
末子っ子
冠婚葬祭と人々の繋がり
祖母のことだけでなく、広く年寄りの女性を指し、敬意を包含している。男性は「じっち」という。「ばっぱ元気かい」と聞いたところ、母親を「ばっぱ」と言われたことで相手に嫌な顔をされたことがある。八溝では「ばっぱ」には「おばあちゃん」とともに「お袋さん」という意味も含んでいる。祖母を「ばあちゃん」というのとは範囲が違う。八溝同士であれば「おがげさんで(お陰様で)」と返してくれる。同じように、こども園で、「餓鬼めらと遊んでくるか」と言うと、若い先生に厳しくたしなめられた。子どものことを親愛をこめた表現であることが通用しない。
ばっぱ
婆っぱ
冠婚葬祭と人々の繋がり
飯を切る桶のことを飯切(はんぎり)といい、それが濁音化した。さらに、入れ物から御飯そのものになり、「ばんぎりばんぎり」と重複することで「御飯のたびごとに」という意味となった。やがて食事以外のことにも使い、「いくら誘われたってばんぎりばんぎり(その都度)は行けねいよ」と、頻繁にとか常にという意味で使う。同じ断り方でも情緒がある。
ばんぎり
飯切
冠婚葬祭と人々の繋がり
「引き出物」は標準語。祝儀や不祝儀の時の返礼品のこと。時代とともに内容が変わった。葬式の引き物は焼き饅頭に白砂糖の「太白」が定番であった。人の不幸とは別に、自家製の馬糞饅頭(まぐそまんじゅう)と違って、焼き饅頭と言われる楕円形の「葬式饅頭」は、滅多にない本物の饅頭であった。ところが、40年以降、テレビが普及も相俟って、植木等の「何であるアイデアル」のコマーシャルで人気となった折りたたみ傘が引物として流行した。文字どおり「アイデアル」であった。今は軽い海苔などのセットになり、結婚式の引物は商品サンプルの冊子になってしまった。鯛の形をした塩竃に餡の入ったものが懐かしい。引き物を振り返ると、戦後の世相ががよく分かる。
ひきもの
引き出物
冠婚葬祭と人々の繋がり
もともと信書を持って急送する職業の飛脚から来た言葉であるが、組内では、葬式が出来ると、亡くなった人の近親者に葬儀の日程などを知らせる役割を「ひきゃく」と言っていた。二人が組になって自転車に乗り、先方に出向いて行く。峠を越えて一日がかりで行くこともあった。「ひきゃく」を迎える側では、酒肴を振る舞ってもてなすことになっていた。「ひきゃく」が来た家ではさらに枝分かれした近くの親戚に触れを回した。「ひきゃく」に行けない遠方には郵便局から電報で沙汰をした。今は電話やメールで済まし、テレビのお悔やみ番組で確認している。
ひきゃく
飛脚
冠婚葬祭と人々の繋がり
やや遠縁の血を引く親戚のこと。葬儀になると、今まで意識していなかった「死んだ爺ちゃんの姉様が嫁に行った家の息子だ」と思わぬ家が「引っ張り」であることを意識することになる。八溝では何と言っても血縁の「まけ」が人の繋がりの基本で、一家の長は、古い香典帳を開きながら「引っ張り」に沙汰をし、不義理をしないようにしなければならない。最近は「ひっぱり」を意識する機会が少なくなった。
ひっぱり
冠婚葬祭と人々の繋がり
高脚膳や箱膳に対して、脚のない黒漆で塗られた四角のお膳。祝儀や不祝儀の振る舞いに、一般の訪問客に用いた。上客は脚付きの高脚膳である。日常の家族が使っているのは箱膳であった。今は家で宴会をするときも座卓の上に仕出しの御馳走をパックのまま出すので、お膳は入らなくなった。ただ、そば屋などで今でも平膳に乗せて出してくれるお店がある。丼(どんぶり)だけでない心遣いがうれしい。
ひらぜん
平膳
冠婚葬祭と人々の繋がり
家計がうまくいかず、衰えてしまうこと。身体の疲労などには使わない。ただ、体力が弱って働かない馬は「びーだれ馬」と言った。「あそこんち(あそこの家)は昔(むがし)息ぶい(勢い)が上がっていたが、息子の代でびーだれっちゃった」と、没落してしまうことの意味で使う。八溝では、土地に残る人たちが時代の流れに取り残されて、いかにも「びーだれた」感じがする。早く村を出た次男や三男の方が「いきぶい(勢い)」が上がっている。愛媛県の方言に「びんだれ」が同じ意味で残っている。
びーだれる
冠婚葬祭と人々の繋がり
裕福で経済にゆとりがること。「福」が形容詞化したもの。「あそこんちはむがしっからふくしんだがら(あそこの家は昔から裕福なんだから)」という。反対語は貧乏の意味の「切ない」である。小さな地域社会でも「福しく」なったり、「切なく」なったりという盛衰の動きがあった。
ふくし(ー)
福し
冠婚葬祭と人々の繋がり
不足が生じると、無理に合わせることから、意味を強める接頭語が付いている。会計が合わなくて不足が生じると「一人500円ずつぶったしだ」と言って帳尻を合わせる。この言葉は今でも使われ、飲み会の後など予算オーバーになって「ぶったし」がある。
ぶったす
打っ足す
冠婚葬祭と人々の繋がり
広辞苑には「削り取る、かすめ取る」とある。八溝の山間の畑作地は耕地が狭く、少しでも面積を増やしたいと誰もが思っている。卯木(うつぎ)は木障(こさ)にならないうえ、根元を掘られてもしゃっていかない(移動しない)ので地境に植えておいた。それでも毎年一鍬ずつ剥って境界を曲げていく人がいる。「へずる」は、ずるをして物を手に入れること全体にもいうが、山村では一番「へずられ」て応えるのは田畑であった。今は耕作放棄地になっているが、それでも年ごとに「へずられ」ていくのを見るのは、何とも不愉快である。
へずる
剥る
冠婚葬祭と人々の繋がり
「ぼっこす」は壊すことだが、大工の中にも、技術が無く、家を壊すだけの「ぼっこし大工」がいた。また、人為的でなく経年劣化で壊れる時は、自動詞として「小屋がぼっこれっちゃった」という。エンジンも「ぼっこれて」しまうこともある。人間関係も、「ぼっこし屋」がいて、うまくいくところもダメにしてしまう人がいた。結納までして破談になるのも「ぼっこれた」ことになる。
ぼっこす
冠婚葬祭と人々の繋がり
建て前(上棟式)や祭礼時に撒く餅。子どもたちはすばしっこくキャッチしたり、地面に落ちた物を拾うが、婆ちゃんは前掛けを広げて落ちてくるのを待っている。右往左往している子どもたちよりも多く拾うこともある。おやつが乏しい時代に、まだ柔らかい紅白の餅を拾い、土を払いながら食べるのは格別であった。上棟式の撒き餅は焼かずに食べることが良いとされた。
まぎもぢ
撒き餅
冠婚葬祭と人々の繋がり
血統、一族のことで、標準語でもあるが、小さな地域社会の八溝では特に重い意味を持つ。「まけ」を中心に繋がりを持ち、付き合いの中心ともなる。葬式があると「じゃーぼ親戚」と言って、普段はつながりが薄くなって疎遠にしていても、「まけ」の付き合いを欠かせない。施主は、代々保管する香典帳を見ながら、沙汰をする「まけ」の範囲を決定する。沙汰を受けた人たちは、他の弔問客と違い、早めに訪問して組内が用意したお昼のうどんを食うことになっている。「まけ」が村落の核になっている。
まけ
冠婚葬祭と人々の繋がり
「町に行く」と言えば馬頭に行くことであった。他の友だちよりは恵まれていて、月に一度は月刊の『おもしろブック』を買いに、国鉄バスに乗って町に行くことになっていた。町には先生をしていた叔母がいたので小遣いをもらう目的で必ず寄った。いつも取ってくれた出前の支那そばは町場の味がした。村にも、村役場があった辺りは雑貨屋や住宅が並んでいた「街村」があった。そういう場所を「町がかっている」と言った。字名に「町」という所もあった。
まぢば
町場
冠婚葬祭と人々の繋がり
反対は「ひだりっか」。「か」は場所を指す接尾語。左右だけでなく上下にも「上っか」「下っか」と使う。同じく場所を示す「端っこ」「隅っこ」などのような接尾語「こ」がある。
みぎっか
右っ処
冠婚葬祭と人々の繋がり
標準語である。地域が共同で道路の補修をすること。往還(県道)は木材を満載したトラックが走るようになり、砂利が敷かれて、時々ローダーが巡回して補修した。しかし、地域の道路は労働奉仕で補修をした。側溝の泥を上げたりへこんだ場所に土を入れたりして均した。馬が嫌うので、沢を渡るには板の上に筵(むしろ)を敷いて土をかぶせた土橋が架橋されてた。腐った板を取り替えるのも大きな仕事であった。今は何でも行政任せで、道のよせ刈りさえしなくなったので、背丈より高い野バラが狭い道をさらに狭くしている。山の挾間(はさま)の田は休耕して久しく、地域の人も通わなくなり、農道も藪に帰してしまった。
みちぶしん
道普請
冠婚葬祭と人々の繋がり
「みっともない」の転、で外聞が悪いこと。「みばわりー」は外見に表れることに多く言うが、「みどもねー」はもっと深い意味を持ち、家そのもののしつけの質が問われかねない。婆ちゃんには「そだごどしたら、みどもねくてしゃね(そんなことしたら、みっともなくて仕方がない)」と、ことのほか外聞を気にしていた。あまりに外聞を気遣いしすぎるのはいかがかと思うが、程良く「みどもねー」と思うことも必要である。
みどもね(ー)
冠婚葬祭と人々の繋がり
見場は標準語。外見や体裁のこと。「みばわりー」とみっともないという意味で使い、「みばいー」とは使わなかった。八溝地域社会では「見場」を非常に気にする。何事につけ「見場悪りーがらきちんとしろ(見た目が良くないからきちんとするように)」と服装の注意をされる。「げーぶわりー(ひとぎきがわるい)」とともに、婆ちゃんからいつも注意されていた。
みばわりー
見場悪ー
冠婚葬祭と人々の繋がり
標準語であり、広辞苑には「恩恵を与える」、「施す」とある。本来他人に物品、金銭の援助を依頼する時に使うが、八溝では、他所に行って「お菓子(がし)恵んでおごれや」と金品をせがむ時に使う。単に「おごれ(ください)」と言うのでなく、「恵む」が付くことから、年長者が年少者に恩恵を施すことになる。山村の人の繋がりの豊かさを内包していた言葉である。
めぐむ
恵む
冠婚葬祭と人々の繋がり
「むこ」でなく「もこ」で、衆の漢字が使われているが、複数ではなく、親しみを込めた呼称である。さらに敬意を表して「もごさま」とも言っていた。家系を絶やさないため「婿入り」の農家が多くあったが、男の子が誕生すれば婿様の用は済んだも同然で、後は働くだけで、種馬と同じであった。気遣いが出来ない家付き娘と一緒になった「もごし」は家でも外でも心が安まらない。祭礼の直会(なおらい)の席で日ごろの鬱憤が爆発して、暴れるのも仕方ないことだった。血縁中心の地域社会では、一家の戸主となっても、死ぬまで「もごし」扱いであった。
もごし
婿衆
冠婚葬祭と人々の繋がり
本家筋、あるいは物事の起源を指す。「水漏れがあるから堀のもどっくろ止めろ」といって物事の源の意味にも使う。八溝の山間での「もどっくろ」で一番意識するのは本家筋のことである。自分の家がどの「もどっくろ」の分かされかは、小さな村落では織り込み済みで、そのうえで親疎の関わりが生まれる。今は過疎化が進み、葬儀の時だけ顔を合わせる「じゃーぼ親戚」になってしまって、「もどっくろ」も「分かされ」も意識しなくなった。
もどっくろ
元っくろ
冠婚葬祭と人々の繋がり
「もやい」は広辞苑に「寄り合って共同で事をすること」とある。農作業や屋普請(やぶしん:屋根の葺き替え)などでは、手間を等価で貸し借りをし、共同作業をすることが多い。成文化されてはいないが、特に田植え時期は水利の関係で、順繰りと水上から田植えをしていく。効率を良くしていくための共同での作業が必要であった。「もやいっこ」である。今は水路が整備され、田植えも収穫も機械化され、「もやいっこ」が必要なくなった。それに伴って共同体の繋がりも薄れ、祭祀催行さえ難しくなっている。港で船がお互い繋がり合う「もやう」も同じ語源であろう。
もやいっこ
催合い
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「やくたいもねー」と否定の語として使われる。益体は役に立つこと、きちんとしていることの意味であるが、否定の語とともに用いて、役に立たない、さらには無駄、迷惑という意味に変化した。「そだもの買って、やくてーもね(そんなもの買って無駄だよ)」と使う。江戸時代の言葉が八溝に伝播し、遅くまで残っている言葉である。
やくてー
益体
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回り番で組内の定会などの会場となる家のこと。特に60日に一度のお庚申様の「やど」は、煮付けなどの酒肴を用意する必要があり、宿では準備が大変だった。近所のお手伝いもあったから、家庭全体が丸見えになってしまう。やがて、30年代になると、各家庭に子供部屋が出来たり、若夫婦が住むため座敷を小さく仕切ったりして、家には地域全体が集まれる空間が無くなってしまった。地域に公民館が出来ると、「やど」の煩わしは無くなったが、地域の結束は急速に減少していった。お庚申様も、年1度の「終い庚申」だけとなり、今は全くやらなくなってしまった。
やど
宿
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屋根の葺き替えのこと。藁に茅を混ぜて草屋根であったから、10年を過ぎると痛みが出て、藁を抑える竹(おしぼこ)が露出してしまう。雀が巣を作ることもあり、見場悪くなってしまう。屋根は南側と北側では痛みの度合いが違う。北側は雪が解けなかったり、防風林の杉の葉が積もったりして痛みが激しい。屋根替えは半分ずつやって、家中の家具も片側に移動する。組内総出お手伝いで、接待も大変である。会津からやってくる茅手(かやで)が寝泊まりして、数日で葺き替える。親方が「ぐし(棟)」の両端に「水」の字を刈り込めば「屋普請」は終わりである。
やぶしん
屋普請
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労働交換で、先にやってもらって、相手方にその分を返すことが「結い返し」である。金銭の発生はしない仕組みである。どの家とも組むのでなく、結いをし合う家は決まっていた。ただ、我が家は兼業農家であったので、「結い返し」でなく手間賃で返した。
ゆいがえし
結い返し
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きつく縛ること。同じ意味で「しっちばる」とも使う。「山羊め(やぎめ)が逃げねよに、よぐ(良く)ゆっちばっとげ」と言われた。農家では縛る作業がさまざまな場面で求められたので、子どもながらに縛り方を身に付けた。緩まないようにした反面、ほどけなくなっては仕事の効率が劣る。解きやすさも大切で、新たな草を求めて移動するので、ヤギの紐を杭に縛るのは「もやい結び」が最適で、すぐに解けた。
ゆっちばる
結い縛る
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戦後、洋装化が急速に進み、昭和30年の頃には、若い女性たちは競って洋服を着るようになった。嫁入り道具にミシンが加わり、若い女性たちにが洋裁を学ぶ場所が必要となり、町に洋裁学校が開校した。近所の多くの若い女性は、中学を卒業すると洋裁学校に通った。子どもたちに取っても洋裁学校に通っているお姉さんたちは眩しい存在だった。しかし、40年代に入ると、高校への進学率が高まり、既製服が安価で買えることから、専門的な洋裁技術は必要なくなり、洋裁学校も閉校した。「洋裁学校」は、成長し、変化していく戦後経済の象徴のような存在であった。
ようさいがっこう
洋裁学校
冠婚葬祭と人々の繋がり
組内の集まり。組内の決めごとは、「寄り合い」での話し合いによる。直接民主主義の原形であるが、概ねしゃべる人がしゃべり、他は聞き役と言うことで、積極的に発言する人は少なく、民主主義にはほど遠い雰囲気であった。父親が宿直の日には、中学生でも名代として会に参加して、「寄り合い」の微妙な雰囲気を感じ取る機会があった。地域には、表にはあらわなない人間関係が残っていたのだろう。
よりあい
寄り合い
冠婚葬祭と人々の繋がり
墓石が卵の形をしていた「卵塔」が語源で、さらに墓地のことになり、卵塔場が「らんとば」となった。子どものころは意味が分からなくても、何となく気味の悪いところを指す言葉で、近くを通るときはいつも駆け足で走りすぎた。育った地域には古い風習が残り、埋め墓と祀り墓が違い、石塔は地域の共同の「らんとば」に建てた。今は自分の埋め墓に石塔を建て、共同の祀り墓には花も手向けなくなってしまった。世代が代わり、どこが自分の「らんとば」か分からなくなってしまっている。
らんとば
卵塔場
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江戸時代に「籠掻き人足」」などを指して言っていた言葉が、葬式の棺桶担ぎとしてそのまま残っている言葉である。今は葬儀場で葬儀を行い、土葬はなくなったから、首に手ぬぐいを巻き、腰紐を巻いて床掘りする役も、棺桶担ぎをする六尺は要らなくなった。山間地では高齢化が進み、地縁も薄くなって、村落で最も大事な葬儀が業者任せになってしまった。
ろくしゃく
六尺
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方言ではない。広辞苑では「移徒」の漢字を充てている。神様が新しい家に越したことの祝いと、新築の自宅を他人にお披露目をすることである。田舎のことだから、引っ越しも新築も滅多にないことで、御祝儀(結婚式)と「わだまし」が慶事の代表であった。この日は、普段着慣れない背広を着て集まった。ただ、「よそで蔵が建つと腹が立つ」と言うふうに、お呼ばれした人は、表と裏では心持ちが違った。
わだまし